中学時代
英語なんかいらない!英語なんか大嫌い!日本人なんだから日本語喋れればいいだろぉ!
っと思っていました。
それが・・・
高校時代
「チャーリーズエンジェルズ」を観てから英語に対する意識が変わり、英語が喋れたらこんな美人な女優さんと話せるかも知れない!
っと思い。少しづつ海外に興味を持つようになりました。
そして、大学への進学は東京農業大学へ。
その理由の一つに大学のプログラムでもある「アメリカ農業実習」があったからです。
大学時代
高校時代に描いていたように「アメリカ農業実習」に参加。
アメリカではメキシコ人ワーカーのマネージャーとして13ha位の畑を管理していました。
ここで誤算があった!
アメリカ農業実習に参加した理由は、もちろん農業技術の習得もあります。
しかし、私は農業技術だけでなく、英語も勉強したくて参加したのですが、メキシコ人ワーカーのマネージャーだったため、毎日の業務ではほとんどスペイン語しか喋らず、英語はほとんど上達しませんでした。
その代わりにスペイン語とラテン系のノリを習得しました。
就職活動時
まだ海外で働いてみたいという気持ちが強く、海外赴任があるような食品系の会社を見ていたり、エントリーしたりしていました。
そしたらある日、大学のエレベーターを降りた時に衝撃が走りました!
エレベーターを降りた目の前のポスターに
「世界も自分も変えるシゴト」
と書かれた青年海外協力隊のポスターがあったのです。
それまでは青年海外協力隊に行こうなんて考えてもいませんでしたが、そのポスターのフレーズがその当時の私に響き過ぎて、即就活を辞め、青年海外協力隊への参加を決めました。
協力隊に応募する時、私の時は第一希望から第三希望まで書くことができました。
アメリカで英語の代わりに話せるようになったスペイン語を活かしたいと思い、希望は南米を中心に書き、応募したのを覚えています。
緊張に緊張を重ねた面接の結果
合格
しかし、派遣国が想定外でした。
第一希望から第三希望のどれでもなく、当時は聞いたこともなかった
「モザンビーク」という国でした。
どこか全く分からなかったので、インターネットで検索。
どうやらアフリカの南の方らしいと分かり、
おぉ!俺はアフリカに行くのか!と
ちょっぴりの不安と大いなる期待に満ち溢れました。
言語もポルトガル語で、スペイン語と似ていると知った時は安堵しました。
補足なのですが、協力隊を受ける際、「希望国以外は行きません」というチェックボックスみたいのが存在し、希望国ではない場合は行かないこともできますので安心して下さい。
私の場合は国はあくまで希望だったので、青年海外協力隊として参加できれば正直どこでも良かったので当然行くことにしました。
(アフリカということで少しだけ親に反対されましたが・・・)
派遣中
様々な経験をすることができました。
本当に協力隊として活動できて良かったと心から言えます。
派遣中の内容についてはこのブログでどんどん書き綴っていく予定ですのでここでは詳しく書きませんが、新しい文化に触れ、同じ志を持った仲間たちと過ごす二年間は私の人生においてかけがえのないものになりました。
派遣中に起こった大きな出来事は
東日本大震災でした。
派遣されてから8ヶ月目のことでした。
あの時は、「日本が大変なのになんで海外の支援してるんだろう?」「日本に帰国して日本のために活動した方が良いのでは?」とか色々考えさせられました。
しかし、私の活動が国と国を繋ぎ、国同士が助け合っていることを知った私は、活動を継続し、本当に草の根活動ですが、一生懸命活動に精を出しました。
帰国後
帰国後は「教員」を目指そう!と決めていました。
これは派遣前に決めていたのではなく。
東日本大震災が起きたことをキッカケに、それまでの外国で働きたい!から
日本のために私ができることはなんだろう?と考えるようになり、大学での経験やアメリカ農業実習、青年海外協力隊の経験を活かせる仕事ってなんだろう?っと自問自答した時。
教員!
が出てきました。
私は教育実習があまりにも辛かったので、教員にはならない!っと決めていたのですが、教員になれば自分の経験が最大限に活かせて、生徒に様々なことを伝えられる仕事って最高!
っと思い、農業の教員を目指しました。
現在
そして現在、教員採用試験も合格し、農業の教員をやっております。
協力隊などの経験を活かした教育を実践すべく日々奮闘中です。
協力隊を目指すきっかけから現在までの概略は大体こんな感じです。
目指すキッカケは人それぞれだと思いますが、協力隊を目指したい!っと思ったらまず行動すべきだと思います。
まずは行動を起こしてみませんか?
まとめ
- 中学、高校の英語力は関係ない
- ビビッと来たらすぐ行動すべし!
- 「世界も自分も変えるシゴト」です!
- どう変わるかはあなた次第・・・